第4回 「村山知義『忍びの者』」

「村山知義『忍びの者』論」要旨

尾西康充

戦後の忍者ブームの火付け役となった村山知義「忍びの者」は、昭和三五年(一九六〇)九月から三七年(一九六二)五月まで『アカハタ日曜版』に連載された。最初は戯曲として構想されていたが、この小説は好評を博し、連載が終了して五カ月後の三七年一〇月に『忍びの者』(序の巻)として理論社から出版された。

「忍びの者」のなかで村山は、一般読者の眼には不可思議なものに映る忍法や忍術を、科学の視点から脱魔術化し、それらのカラクリを解き明かしながら忍者たちに使わせている。「いくら呪文を唱えても、印を結んでも、ドロンドロンと消え去ることのできないことを、一番身にしみて知っているのは忍者自身」であり、「効果が、実際に即時に現われないことに命をかけるわけにはゆかない忍者たちは、坊主たちよりはリアリスト」であったとされる。忍法や忍術の知識とそれらの科学的な分析は、「この方の教示がなければ本編は生まれ得なかった」と伊賀上野の奥瀬平七郎の忍者研究にもとづいていることを明かし、忍者小説の〈語り〉の信頼性を高めている。

「忍びの者」のなかには、上忍から与えられた使命にひたすら忠実に生きるのではなく、嫉妬や復讐などの気持ちに左右され、ときには仲間を裏切って密告するという下忍の姿が描かれた。この裏切りという行為を描き出した背景には、作者村山にとって悲痛な転向体験があった。そして戦前の非合法日本共産党には、警視庁特高課のスパイが潜入しており、あろうことが彼らによって組織が維持されていたという事実があった。村山が小説のテーマとして百地=藤林説を取り入れたのは、諜報機関のカラクリを知ったからであった。

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