第2回「「神君甲賀伊賀越」における甲賀者の活躍」(前期)

「「神君甲賀伊賀越」における甲賀者の活躍」要旨

渡辺俊経

 

本能寺の変の直後、徳川家康が堺から岡崎へ逃げ帰った逃亡劇に関する大日本史料に掲載された54件の史料を当り直した結果、1)事件以後60年間に書かれた史料では、「伊賀越」や「伊賀路」は京都経由でなく伊賀峡谷を通ったとの意味で用いられており、必ずしも伊賀国を通過したことを意味しないこと、2)同期間中の史料には宇治田原~柘植間では宇治田原(山口城)、信楽(小川城)、柘植(徳永寺)以外の具体的地名は書かれていないこと、3)伊賀国内の具体的地名が突如不自然に詳細に出て来るのは、「石川忠総留書」以後であり、同書の信憑性を疑う必要を指摘した。

その上で、山口城、小川城、柘植における甲賀武士たちの家康への具体的支援ぶりと、それに対する家康からの謝礼である恩賞(家禄、役職等)を、甲賀に伝わる文書や伝承を援用して整理を試みた。その結果、多羅尾氏、山口氏、山岡氏、和田氏が支援チームの中核であったこと、これに美濃部氏、武島氏、山中氏らが加わり、この外側に蒲生氏、柘植氏、(福地氏)らが直接間接に支援に加わっていたと想定された。

彼らは全て、すでに天正9年、10年の時点で織田信長政権に於いて、それなりの活躍をしており、それ故に家康は甲賀者の支援を安心して受け入れたのであろう。家康を救ったのは、織田政権参加組であった。

 

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