第6回「忍術に見る修験道の影響」

「忍術に見る修験道の影響」要旨

山田雄司

 

南北朝・室町期に編纂されたと考えられる兵法書『張良一巻書』『兵法秘術一巻書』『義経虎之巻』『兵法霊瑞書』等の内容は、中国兵法書とは違い個人的な戦い方について記しており、密教・陰陽道・修験道などの要素が強い。この段階ではまだ武士と「しのび」とははっきりと別れていなかったのではないだろうか。兵法書には出陣の作法などとともに、「闇夜明眼ノ秘術」「隠身ノ秘術」「飛行自在霧鞭之大事」「兵法九字ノ大事」など「しのび」的要素を伴っている。このような兵法書は呪術性の強い中世的世界を反映しており、また武力を有した寺院に伝えられたため、宗教性が強かったとも言える。

戦国期は神仏に対する認識の転換期であり、為政者の中には宗教世界に傾倒していた人物もいた。その代表が管領細川政元である。政元は安芸国から上洛してきた山伏である宍戸又四郎家俊(司箭院興仙)から魔法である飯綱の法・愛宕の法の術を受け、さながら山伏のようだったという。家俊は愛宕の神に祈誓してその術に通じ、飛行が自由にできるようになったとされ、鞍馬寺に入って兵法を修めた。また、上杉謙信は印判に「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」の名を刻み、自ら春日山城内の毘沙門堂に籠もって毘沙門天・勝軍地蔵・摩利支天等を拝んで「敵退散ノ秘法」を行うなど、修験の影響が強かった。このように、戦国期には、兵法の中に修験道などの呪術的要素が包含され、大名たちはそれを用いて戦勝を祈願した。

それが17世紀になると、中国からの兵法が学問として導入されることにより、これまで日本の兵法書が有していた「しのび」や呪術的要素は切り捨てられ、兵法は兵学として学問の一つになっていった。他方、国家から切り離された部分が在地に残り伝えられ、さらにさまざまな要素を加味して「忍術」になっていったのではないだろうか。

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