第4回「畿内武家権力と伊賀」(後期)

畿内武家権力と伊賀

中川貴皓

戦国期には傭兵的性格をもつ軍勢として、畿内近国の武家権力から頼りにされた伊賀衆であるが、他の軍勢との差異はあきらかでなく、いまだ彼らの実態は定かでない。それゆえ、本報告では畿内近国を跋扈する彼らの実態について分析を試みた。

まず彼らを生み出した土壌ともいえる室町・戦国期の伊賀国の権力構造を整理し、当国の城館の様相を検討した。これら城館の在り方(分布・平面構造)は、先述の権力構造を反映していたことを確認した。

つづいて城をめぐる伊賀衆の戦いを検討した。彼らは夜討ち・奇襲・侵入・放火など特殊な戦術を駆使した短期的な攻城戦(「城取」)で突出した活躍をみせていることがあきらかになった。実際、彼らは武家権力側から「伊賀之城取者共」とも呼ばれ、警戒されていた。丹波国の武将内藤宗勝は「伊賀之城取者共」の襲来に対して、城内の警備強化および兄松永久秀への急報を指示している。前者については詳細に「昼夜問わず城内に出入りする人々、下人に至るまで「相改」ことが極めて大事である」と述べている。伊賀衆の常套手段は、城に出入りする人々に変装して城内へ忍び込むことであったようだ。伊賀衆に対する認識や備え、そして伊賀衆の戦術をも窺うことができる貴重な事例である。

さて、伊賀衆を考えるうえでキーワードとなった「城取」であるが、これは武家権力側の認識だけではない。伊賀惣国一揆掟書第5条では、他国で活躍する伊賀衆の「城取」を事例として挙げ、有事の際は百姓ら地下人も城取して敵を退けるよう求めており、惣国挙げて「城取」を重視していることがわかる。このような下地があることを看過できない。

以上の検討から、伊賀衆の実態はただの傭兵的な軍勢ではなく、「城取」のスペシャリストであったといえる。のちに忍び的な要素として捉えられる夜討ち以下の行動は、あくまで敵の排除、具体的には「城取」のための一手段として用いられ、特化した技術であった。この技術をもつ伊賀衆の存在は、近世以降の「伊賀者」「忍者」像形成のルーツのひとつになったと考えられる。

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