第1回「"忍者の里"の原像-壬生野の結衆、城館と春日神社-」(後期)

"忍者の里"の原像-壬生野の結衆、城館と春日神社-」要旨

伊藤裕偉

戦国時代の伊賀国には、「戦国大名」と呼ばれる権力者がいません。それは、大きな権力者による支配を望まない風土だからと言われています。忍者を育んだその個性について、壬生野地区(伊賀市川東・川西・西ノ沢)を素材に解説しました。

壬生野地区は、平安時代後期(西暦12世紀初め)には春日社(奈良市)の荘園でした。春日神社(川東)が地域の精神的主柱で、その拝殿は室町時代の造立と考えられている古建築です(県指定有形文化財)。

この一方で、ここには一辺50m程度の土塁を巡らせた方形の小規模城館が多数見られます。城館はひとつひとつが独立し、武力を持った領主の家です。独立意識の強い彼らですが、川東の春日神社を心の支えとするという点ではまとまっていました。

織田信長による2度の伊賀責め(天正7年・同9年、1579・1581年)で、伊賀の人びとによる連携組織である「惣国一揆」は崩壊したと言われています。しかし、信長死後に勃発した羽柴秀吉と柴田勝家による主導権争い(天正10・11年、1582・83年)に伴い、壬生野の人びとは「一庄惣」という組織を立ち上げました。天正11年5月、彼らは川東の春日神社をはじめとした4所の神社に立願します。立願状には、壬生野だけでなく、広く伊賀国の安定を願う旨が記されています。「惣国一揆」の精神は継承されているのです。

彼らの祈りが通じたのか、伊賀国に侵入していた筒井順慶は退却します。そしてその年の9月、壬生野一庄惣を中心に春日祭が催されました。現在、春日神社春の例祭で催されている「長屋祭」は、戦国時代末期の春日祭を起源としています。

壬生野地区では、春日神社拝殿や城館の土塁など、戦国時代の景観を彷彿とさせる素晴らしい文化遺産を数多く目にすることができます。これは、江戸時代を通じて維持されてきた景観に他なりません。信長によって伊賀は壊滅されたと言われますが、壬生野の景観を見ると、戦に勝ったのは実は伊賀ではないのか、と思えてきます。

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