人文学部
人文社会科学研究科

研究

第4回「津軽と南部-忍者の系譜をたどる-」(前期)

津軽と南部-忍者の系譜をたどる-」要旨

清川繁人

謀反によって南部家から独立を果たした津軽為信は、戦国期に十三人の忍者を召し抱えたことが確認された。中でも服部長門守康成は、由緒書によれば服部正成の嫡男として伊賀で生まれ、関ケ原の戦いでは忍術で大功を成し、後に筆頭家老となって津軽藩の基盤整備に尽力した。しかし晩年になると藩内が福島正則派と石田三成派に分裂し、両者の調停をできないまま生涯を終えた。

寛文年間に入ると蝦夷地ではシャクシャインの戦いが勃発し、侍大将として出征した杉山八兵衛(石田三成の孫)は、諜報活動により幕府から褒章を授与された。八兵衛の没後直ちに江戸で甲賀忍者の中川小隼人が召し抱えられ、早道之者と命名された二十人以上の忍者集団が明治三年まで約二百年間活動した。早道之者は南部藩との藩境や蝦夷地の監視を主たる任務とした。津軽藩と南部藩の間で発生した檜山騒動や相馬大作事件では両藩とも忍者が活動したが、早道之者を擁する津軽藩が有利に問題解決に当たった。

早道之者の組織的活動を支えたのは近年弘前市で発見された忍者屋敷で、その後古地図の調査から、屋敷に忍者一家が住んだのではなく、早道之者を支配した一族の傍流が管理者として居住したと推定された。

2019年度前期第4回忍者・忍術学講座 (5).JPG

動画(部分)

Page top