研究
第1回「日本古代の情報伝達網-「烽火」の設置と原始・古代社会-」(後期)
「日本古代の情報伝達網-「烽火」の設置と原始・古代社会-」要旨
山中 章
忍者の主な仕事は情報収集だという。日本古代社会に「忍者」は存在しないが、情報収集のための法律がある。烽(とぶひ)という狼煙の制度である。烽は緊急に敵の襲来を伝達する方法である。『延喜式』によれば大宰府管内において敵を認めた際には二つ、敵の規模が200艘を越えるときは3つの狼煙を上げることになっていた。
日本の烽は弥生時代に出現する高地性集落にあった。丘の上など高地から見つかる遺跡網を狼煙による連絡網と考えたのである。高地にある遺跡として知られるのが朝鮮式山城である。白村江の戦いに敗れた中大兄皇子(天智天皇)の政権は、唐新羅連合軍の報復に対抗するため、北部九州から瀬戸内海沿岸に次々と石垣で護られた頑強な山城を建設する。緊急時の狼煙台の設置と籠城用の食料備蓄のためであった。
奈良時代には唐の制度を真似て烽設置のための法律(軍防令)が定められる。それによれば烽はおよそ40里(約20キロ)毎に適所を撰んで配置し、昼は白煙を、夜は火を挙げて連絡することになっていた。『出雲国風土記』を始め、複数の風土記には国内に烽の置かれていたことが明記されており、律令国家は全国に烽による緊急情報伝達網を形成していたのである。烽の実例は飛山城跡(宇都宮市)から発見された。遺跡には規定通り、45メートル間隔に並んだ烽台があり、「烽家」と記された土器が発見された。飛山城は芳賀氏の居城として知られていたが、その名称は奈良時代の烽に由来していたのであった。
烽の歴史は戦争と共にあった。秦の始皇帝が北方からの襲撃を防ぐために設けた万里の長城、ローマ皇帝がスコットランドからの攻撃を防ぐために設けたハドリアヌスウオール等々、その防衛のために城壁の各所に烽台が置かれていた。
壬申の乱において大海人皇子は腹心の部下である村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手に命じて密かに戦いの準備をさせた。諜報活動を担った彼らは「忍者」の元祖だったのかもしれない。