研究
第1回「江戸の建設と服部半蔵・伊賀者」(前期)
「江戸の建設と服部半蔵・伊賀者」要旨
根岸茂夫
東京四谷の西念寺は服部半蔵正成(1542-96)が開基し、彼の墓がある。また徳川家康の長男岡崎信康の供養塔があるが、半蔵は晩年に信康の遺髪を埋めて供養塔を建立し、菩提を弔って出家したという。
服部半蔵正成は、家康に仕え戦功を立て「鬼半蔵」といわれ、伊賀者を支配した。天正7年(1579)家康が信康を切腹させたとき検使となり、信康から介錯を命じられたが肯じなかったという。のち天正10年の伊賀越えなど諸方で活躍し、家康は半蔵の旗指物を徳川家の使番の旗として採用した。使番とは戦場で本陣の命令を前線に伝え、ときに前線の指揮を執り、また情報収集や敵情分析をする参謀である。家康が半蔵の旗を使番の旗としたのは、半蔵が使番・参謀として活躍し、家康の耳目となっていたためであろう。その活躍は、配下の伊賀者の情報収集に支えられていたと想像できる。半蔵が信康切腹の検使となったのも家康の耳目であったためだが、それが生涯半蔵の重荷となり、信康を弔って最後まで供養したのである。その意味で半蔵は、心身ともに徳川家臣団の中核にいた。
伊賀者は情報収集に従事していただけではない。正成の子服部半蔵正就は、慶長10年(1605)に改易される以前には、徳川秀忠の鉄砲奉行であった。このことは、配下の伊賀者が鉄砲衆として編成されていたことを窺わせる。のち幕府の鉄砲百人組に伊賀組がおり、また半蔵改易後に配下の伊賀者が先手鉄砲組に分割されたのも、近世初期に伊賀者が鉄砲隊として幕府軍制に位置付けられていたためであろう。
半蔵の屋敷があったという江戸城半蔵門は、甲州街道筋に向かって開いている。四谷周辺の甲州街道沿いには伊賀者・百人組・先手組の屋敷が集中していた。城下町の多くは、街道沿いの城下町はずれに足軽町を置いている。進軍のとき軍勢の先頭を行くのが足軽鉄砲隊だからである。江戸城下の成立期に、服部半蔵はこうした部隊を支配する立場にあった。また四谷では台地の縁に寺院が並び防御線を形成していた。一般に城下町は防御の弱い方面に寺町を配している。四谷は江戸城より標高が高く、近世前期まで外濠もなく防御の弱い地域であった。この方面の防御にも服部半蔵が関わっていたのであろう。服部半蔵は、幕府草創期の徳川軍団の中で重要な役割を担っていたのである。