人文学部
人文社会科学研究科

研究

第4回「伊賀・甲賀の一揆について」(前期)

「伊賀・甲賀の一揆について」要旨

呉座勇一

 江戸時代になると「伊賀者」という形で伊賀忍者の姿が見えるが、それ以前の中世においては、武士とは異なる職業的諜報員としての忍者の存在は確認できない。中世の「伊賀衆」は時に忍び働きを行うことはあっても、本質的には地侍(村落に土着している武士)だった。

 彼らの活躍として最も知られているのが、巨大な織田政権と戦った天正伊賀の乱である。当時の伊賀衆は「伊賀惣国一揆」という組織に結集しており、同乱は「織田政権と伊賀惣国一揆の戦争」と評される。

 しかし学界では、この伊賀惣国一揆の性格をめぐって、同一揆を地侍だけの一揆と見る意見と、地侍だけでなく百姓も参加している一揆と捉える意見とが対立している。結論が出ないのは、同一揆に関する史料が乏しいからである。そこで伊賀の地侍と性格が似ている甲賀の地侍たちの一揆について検討し、その研究成果に基づいて伊賀惣国一揆の実態を解明したい。

 永禄九年伴・山中・美濃部三方起請文や永禄十三年大原同名中与掟など甲賀の侍の一揆に関する史料を再検討すると、日常的に対立してきた地侍と百姓が、織田信長という外敵の出現を受けて一揆を結んだことが判明する。したがって伊賀惣国一揆掟書も、織田との対立という危機的状況下で伊賀衆が百姓層を軍事総動員するために永禄十二年十一月に作成したものと評価できる。通説では「惣国」と「惣国一揆」を同義と理解し、戦国時代の畿内に多くの惣国一揆が成立したと言われているが、「惣国一揆」という史料用語が登場するのは伊賀惣国一揆掟書のみであり、平常時の「惣国」を非常時の「惣国一揆」に発展させることができたのは伊賀だけだったと考える。

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