「ここまで分かった!佐賀の忍者史 」要旨
深川直也
先年まで忍者情報が判然としなかった佐賀県において、嬉野市の忍者発掘事業を契機に、忍やそれに類する者の史料情報が14名分提示できるまでになった。
具体例として、小領主であった龍造寺隆信が、敵領主同士の離間を謀るために放った間者。逆に、神代勝利が龍造寺家に潜入させていた内間。そして神代長良の窮地を援けた「忍者」という他無い働きの草履取り。鍋島直茂が今山の戦い前夜に放った斥候や、難攻不落の須古城に通じ敵将を寝返らせた間牒、そして直茂が予め肥後の梅尾に忍を入れておき、奇襲を容易に撃退した話。また龍造寺の重臣・空閑三河守が普段から多くの忍を召し抱え、盗み乱妨を許すかわりに無給で使役していた事。鳥栖市の国衆・筑紫広門が謎の茶売りを岩屋城下へ派遣し、たまご火の放火術で全焼させた事。関ヶ原の戦いの頃、西軍による伊勢国・津城攻めの際、龍造寺家久の配下が忍を行った事。島原の乱の際、細川忠利から鍋島勝茂宛書状によると、鍋島藩も忍を使おうと思えば使えた事が判る事。島原藩高力氏改易の際、蓮池藩の細作、嬉野忍者・田原安右衛門が活躍した事。弁慶夢想の忍法と極意秘密之巻の事。幕末期では、蓮池藩の内密の「聞合方御用」を務めた古賀源太夫の事。
九州三国志と呼ばれる一時代を築いた龍造寺隆信や鍋島直茂などの事跡には、「用間」による巧みな策略や計略があり、情報収集に長けていた点が指摘できる。つまり九州においても、武将や組織の強さとは、"忍"に類する者の活躍の事ではないだろうか。