「戦国島津氏の『忍び』について-忍衆・伏草・野伏・山潜・からくり-」要旨
桐野作人
研究
忍者(忍び)についての史料は近世の軍記物が多いが、南九州の戦国大名、島津氏の場合は、幸いにも一次史料など比較的良質な史料が残っている。
戦国島津氏の忍びは戦乱の時代であることから、基本的には「いくさ忍び」だといえる。当時の史料には「忍衆」「伏草」「野伏」「山潜」といった用語で登場する。主に戦場での奇襲・放火・攪乱などに従事している。島津氏の常套的な軍法は「釣り野伏」と呼ばれる囮を利用した待ち伏せ作戦であり、忍びたちはその囮となったり、おびき出された敵勢を攻撃するために山野に潜む伏兵などの役をつとめていることがわかる。「伏草」とか「野伏」といった言葉はまさにそのような姿を指していよう。
一方、情報収集・伝達に従事するのが「山潜」であり、遠方への使者となったり、城郭にへ潜入したりしている。歩行の達人である修験者が「山潜」を兼ねていることが多い。
島津氏の忍びは集団行動する特徴があるが、それは身分的にどのような構成で成り立っているのかを明らかにことが大きな課題である。