研究
第5回「越前福井藩における忍者の実像」(前期)
「越前福井藩における忍者の実像」要旨
長野栄俊
一般向けの忍者本では、福井藩の忍者は「忍之衆」という名称で、20人より多くいたとされ、鉄砲練習や藩主護衛、情報収集などを職務としたと説明されている。
ところが松平文庫の藩史料によって同藩の忍者を再検証してみると、彼らは「忍之者・忍組」と呼ばれて藩の下士(卒=足軽)の格式に属していたこと、慶安2年(1649)の設置時に20人いたものが、後に12人にまで削減されたこと、彼らの給禄や居住地、全員の名前も明らかにすることができる。
また、忍御用(探索)の具体例として、城下での打ちこわし発生時に村々への派遣が命じられた例や、豊後や京都にまで派遣されて絵図面作成や伝承聞き取り、張紙の筆写など多様な任務をこなした事例があった。彼らは平時には鉄砲ではなく半弓を屋敷に隣接する矢場で稽古し、時に火矢の訓練も行っている。さらに戦時の軍役を定めた史料からは、出陣時の具足の詳細や武器・持物、荷運びの人数や馬の数までが判明する。
慶応2年(1866)忍之者は予備組に再編されて消滅する。高度な情報にも対応できる探索方が別の藩士に命じられ始めたこと、足軽自体の軍制改革などが原因とみられる。