人文学部
人文社会科学研究科

研究

第4回「伊賀者の町~四谷・鮫河橋谷町」(前期)

「伊賀者の町~四谷・鮫河橋谷町」要旨

            福重旨乃

江戸時代、伊賀者の居住地であった鮫河橋谷町(現・東京都新宿区若葉三丁目)について、埋蔵文化財の発掘調査の成果をふまえ、主に文献調査の視点から江戸時代~明治時代の歴史的変遷を追った。

鮫河橋谷町は寛文4年(1664)に伊賀者31人の大繩地が下賜されたことにはじまる。

江戸時代の地誌「文政町方書上」によれば、鮫河橋谷町の拝領屋敷について、寛文4年に拝領された31家のうち、文政期(1818~31)には18家が同じ屋敷地を引き続き所持する一方、伊賀者の役に就いている者は8名であった。安政3年(1856)の「諸向地面取調書」よれば、幕末には多くの伊賀者が拝領屋敷を貸し出し他所に居住していた。

次いで鮫河橋谷町の住民構成として、武家地の中に百姓が居住していたこと、伊賀者には町方の支配が及ばず、家守を置いて町人を管理したが、家持層の不在が都市下層民流入の一因となっていた。慶応4年(1868)の「其日稼之者人別書上」から、拝領屋敷31筆の家主と敷地内の長屋に居住する店借の職業について述べた。

明治維新後、伊賀者は鮫河橋谷町の地を離れた。その後、明治時代には貧民窟が形成された。しかし、都市発展による地価の高騰や関東大震災によって貧民窟は消滅した。

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