人文学部
人文社会科学研究科

研究

第6回「松江藩の忍者」(前期)

「松江藩の忍者」要旨

 山田雄司

 堀尾吉晴は、天正8年(1580)の播州三木城攻撃において信長から甲賀衆100人を預けられて別所長治を攻め落としたが、「堀尾家譜系」では、彼らは「忍者」であって、間諜をよくすると記している。
 天正9年の天正伊賀の乱によって伊賀が織田信長の軍門に降ると、その中には堀尾を頼ってくる人々もあり、関ヶ原の戦いでは堀尾のもと伊賀衆・雑賀衆が鉄砲隊として活躍している。そして、堀尾が出雲国に入ると40人の伊賀衆も出雲に赴いた。彼らは松江城が築城されて城下町が整備されると、城西の山すその伊賀衆屋敷に住んだことが「堀尾期松江城下絵図」から確認でき、鉄砲隊として雑賀や先手組の鉄砲足軽より重用され、大坂の陣にも参戦している。
 しかし、堀尾忠晴に嗣子がなく改易となると、新しい仕官先を求め、備中松山や赤穂を経由して岡山藩に仕えた者や、高松を経由して徳島藩に仕えた者などがあった。他方、松江藩では京極氏以降、まとまったかたちで伊賀衆の痕跡は見られないが、松平氏に至るまで忍者が存在していたことは確認できる。
 松江藩の史料からうかがえる忍者の姿は、情報収集や治安維持とともに鉄砲をよくする集団で、そうした術を身につけていることをウリにして仕官先を求めて活躍していった。

2020-09-17 (2).png動画

Page top