人文学部
人文社会科学研究科

研究

第2回「島原・天草一揆と忍者」(前期)

「島原・天草一揆と忍者」要旨

山田雄司

 これまでの研究においては、島原・天草一揆の際、松平信綱率いる幕府軍配下で甲賀忍び10人が参加して原城の状態を調べたが、落とし穴に落ちて一揆勢に見つかり、石でさんざん打ち落とされるなど、忍びはほとんど機能しなかったとされている。
 しかし、熊本藩では、忍びが熊本城下で鼠の糞を集めて焙烙火矢を作り、忍び吉田十右衛門が天草四郎館に火矢を放って焼き払ったなど、原城攻撃に際して忍びは重要な役割を果たした。
 秋月藩では忍び柴岡九郎兵衛が城内に忍び込んで中の情報を伝えている。しかし九郎兵衛は原城攻撃の際に死亡し、本来は名前が記されることはないが、死亡したため名前が記され、その姿が秋月博物館所蔵「嶋原陣図御屏風」にも描かれた。福岡藩では新野十助という鉄砲上手の忍びが、佐賀藩には吉田千左衛門、薩摩藩の忍びも城内に忍び込んで中の様子を探っている。
 このように九州諸藩の忍びたちが、それぞれ城内に忍び込んで中の様子を探ったり、工作活動をしているほか、たて籠る一揆軍にも忍びがいて活動していた。のちに松江藩に抱えられることになる雨森清広もこのとき忍び的な活動をしており、島原・天草一揆では忍びが重要な役割を果たしたことがわかった。

島原・天草一揆サムネイル.jpg

動画

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