人文学部
人文社会科学研究科

研究

第4回「家康は伊賀盆地を馬で駆け抜けた!-大和・南伊賀ルートを語る伊賀者由緒類と伊賀者・服部保次-」(後期)

家康は伊賀盆地を馬で駆け抜けた!-大和・南伊賀ルートを語る伊賀者由緒類と伊賀者・服部保次-」要旨

上島秀友

『寛永諸家系図伝』によると、服部保次、通称「中」の生国は伊賀で、家康の伊賀越えでの功で鉄砲同心五十人を預かったとあるが、服部半蔵に比して無名である。多くの伊賀者由緒文書は大和越えで共通し、保次と思しき「服部仲」が登場するが、山城~信楽~伊賀という通説の前に無視され、保次も黙殺されてきた。『当代記』『創業記考異』『御年譜附尾』等、家康一族による書は大和越えを記し、石見銀山奉行に取立てられた竹村道清ら宛の家康書状からは竹内峠を越え、和田織部宛家康書状からは高見峠に迂回したことが想定される。これは『譜牒余録』にある吉川家覚書と図や『御年譜附尾』と符合し、高見峠まで伊賀衆が迎えに来たというから伊賀者由緒類を補強する。また『寛政重修諸家譜』酒井重忠項の「大和路に御馬を向られ、伊賀路を経て」という記事を裏付ける。『信長公記』等は、家康は堺で本能寺の変を知ったと記すが、その場合、家康が光秀のいる京都に向かうとは思えず、『石川忠総留書』の内容に疑問符が付く。『宇野主水日記』にある「計略」とはこれを指すのか。以上から大和越えを再検証すべきであり、大和越え否定の犠牲になった服部保次にも着目すべきである。

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