人文学部
人文社会科学研究科

研究

第3回「越中立山衆徒の諸国での勧進布教活動」(前期)

越中立山衆徒の諸国での勧進布教活動」要旨

福江 充

 忍者のイメージとして、敵国に侵入し勝れた武芸で活躍する姿が思い浮かぶ。しかし地味だが、情報収集とその伝達も忍者の重要な役割であろう。その面で言えば、日本の霊山の御師が諸国を廻国し勧進布教活動を行う姿は、さながら忍者のようである。越中国立山山麓の芦峅寺と岩峅寺の宿坊衆徒のうち、芦峅寺衆徒は宿坊ごとに、例えば江戸や大坂、尾張国、信濃国など、それぞれの地域に檀那場を形成し、その衆徒は毎年農閑期になると自分の檀那場に赴き、立山信仰を布教しながら護符や経帷子を頒布して廻った。衆徒は様々な護符を刷っていたが、諸国での廻檀配札活動の際には牛玉札「立山之宝」を中心に火の用心や祈祷札、山絵図(お土産用の木版立山案内絵地図)、経帷子などを頒布した。また、特に女性の信者には血盆経や月水不浄除、安産などの祈祷札を頒布した。この他、護符に限らず、立山反魂丹や立山御夢想丸などの薬、箸、針、楊枝、扇、元結なども頒布して利益を得ている。さて、こうした布教活動、及び経済活動、そしてそれを成り立たせる情報収集活動によって、立山信仰は、特に幕末期には庶民層のみならず、江戸幕府第13代将軍徳川家定の夫人の天障院篤姫や、江戸幕府第14代将軍徳川家茂と夫人の皇女和宮などの将軍家をはじめ、幕政を担う老中、大奥女中ら、近世身分制社会の最上級のところでも受容されていた。私は今回の講座で、芦峅寺衆徒の活動実態を詳しく紹介させていただいたが、こうしたことが、みなさんに江戸時代の忍者をより豊かな視点で考えていただける機会になればと、期待している。

福江サムネイル.jpg

動画

Page top