人文学部
人文社会科学研究科

研究

第1回「姫路と忍び」(後期)

「姫路と忍び」要旨

宇那木隆司

 姫路は西国枢要の地であり豊臣・徳川二重政権時代の緊張下に姫路城主池田輝政は59人の「伊賀者」(伊賀の忍び)を召し抱えていた(慶長18年池田家分限帳)。

 元和偃武後、徳川譜代で初めて姫路城主となった本多家時代(1617-38)の忍びは確認できないが、緊張覚めやらない西国枢要地姫路で譜代筆頭クラスの本多家が伊賀の忍びを使ったことは十分推測できる。第2次本多時代(1682-1704)になると江戸に「忍組」、国許に「忍同心」20人の配備があるが「忍同心」の任務は姫路城外山下(そとさんげ)と外堀の巡回とされ平時体制下で忍びの職務に変容がみられる(姫路市史10姫路時代町奉行役所日記ぬき書)。

 第2次結城松平家は姫路が「所柄」(枢要地)であるため同じ結城松平家の松江藩から遣わされた「忍の者」を召し抱え、彼らの祖先は豊臣・徳川二重政権時代の緊張下に出雲の堀尾家が召し抱えた伊賀の忍びであった。

寛延2年(1749)前橋から姫路に転封となった酒井家は大老・老中を輩出する譜代筆頭クラスだが、姫路入封にあたり、姫路が中国四国往還の繁華地で幕府役人の通行も頻繁、京・大坂・姫路には公儀隠目付(幕府の隠密)も来るため、些細なことも江戸表には大事に伝わりかねないとして藩主は家中に綱紀粛正を命じ幕府の目に神経をとがらせている(姫藩典制録)。

酒井家の家柄から忍びは伊賀の忍びを召し抱えていると推測されるが、酒井家の平時体制では番士などとして配備、武備(軍制)においては旗本備えに「忍之者」として配備される(姫陽秘鑑)。酒井家において「忍の術」は山鹿流や甲州流軍学、槍術・弓術・手跡(書)・鷹匠等とともに「諸芸術」「芸事」に位置づけられ芸事奉行が置かれていた。芸事で召し抱えられた者に前橋藩酒井家5代忠挙の代に「忍術巧者」小野十郎兵衛が知られる(姫陽秘鑑)。

姫路転封をめぐる家中対立で刃傷沙汰まで発生した酒井家の姫路藩初代、忠恭(前橋藩9代)は「忍の術に使う薬」を家臣倉橋半四郎相手に藩主自ら製造したことが記され、幕府御家人の伊賀者で西の丸山里門番の倉地与左衛門を娘婿とする加藤三郎右衛門を「忍の術に達せし者」として召し抱えている(姫陽秘鑑)。

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