人文学部
人文社会科学研究科

研究

第3回「藤堂藩の災害対応における無足人層の役割 -伊勢国河曲郡肥田組大庄屋服部庄右衛門の事例-」(後期)

藤堂藩の災害対応における無足人層の役割伊勢国河曲郡肥田組大庄屋服部庄右衛門の事例」要旨

三橋源一

 日本は地理的条件から「災害大国」であり、災害と向かい合ってきた歴史がある。ポストコロナ社会を模索しながら、南海トラフ大地震に備える現在社会は、南海トラフ大地震とコレラや天然痘などの疫病の"複合災害"に向かい合ってきた、江戸時代安政期の災害史に学ぶべき点があるのではないか。
 安政伊賀地震の際、藤堂藩では「無足人」と呼ばれる、城下町と農村地域、藩士と農民を取り結ぶ「中間層」が、速やかな災害対応に尽力した経緯がある。特に、災害復旧には迅速・正確な「被害状況の把握」が必須である。この点について伊勢国無足人で肥田組の大庄屋である服部庄右衛門の初動対応を対象として検証した。その結果、管轄下の20ヶ村全体の被災者数・被災家屋の状況を集計・チェック・清書・提出まで、2日以内に完成していたことが史料より判明した。
 藤堂藩では、被害届を平時より民衆と共有・標準化を行い、軽微な災害対応に無足人層が中心となって対応を繰り返すことにより、「自律的問題解決能力」とも表現される力が醸成され、迅速な情報伝達システムも手伝って、迅速な「被害状況の把握」が実現したのである。災害が多発した江戸末期は、生活の中に防災が想定されている「防災文化」が構築されていた。災害の常態化に備え、自助・共助の重要性が叫ばれる現在、このような姿勢に学ぶべき点は大いにあると思われる。

三橋サムネイル.jpg

動画

Page top