研究
第4回「戊辰戦争における会津藩の情報収集」(前期)
「戊辰戦争における会津藩の情報収集」要旨
栗原祐斗
慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いのあと、会津藩は仙台藩等に仲介を頼み、新政府に謝罪を申し入れるも交渉は難航、やがて全面的な戊辰戦争へ突入する。鳥羽・伏見の戦いが起こる前、会津藩は慶応3年暮れに二本松藩との藩境に位置する中地村(現 郡山市)検断の石井重右衛門に機密探索を命じている。幕末の政局が大きく動いていく中で、会津藩の国元が求めたのは周囲の藩の情報であった。
探索の命を帯びた重右衛門は、血縁者や知人を頼って他領へ赴き、二本松藩の軍備や米・金の備蓄具合、白河小峰城の絵図などを書き取り、会津藩に報告した。以後、重右衛門は数度にわたって探索を繰り返している。会津藩士が表向き行動することが難しい状況であったため、重右衛門のような村役人が探索の適任者として選ばれたのであろう。これは会津藩に限った話ではなく、他藩においても密かに探索の者を放っていたことは重右衛門の報告から明らかである。機密情報を収集する探索は危険と隣り合わせであり、探索代が支払われていた。また会津藩では、探索の者から藩士に取り立てる動きもみられた。