研究
第5回「津山松平藩における目明しの役割」(前期)
「津山松平藩における目明しの役割」要旨
綱澤広貴
津山藩における目明しは、催し物の監視や城下の警備などで、ひそかに庶民を監視する密偵として機能していた。こうした存在は、平和が訪れた日本近世における忍びの者の一側面として評価することもできよう。
津山藩の目明しは、江戸の目明しが同心に私的に雇われた存在であるのに対し、町奉行の支配を直接受け扶持を受けてた存在で、役人的性格が強い。18世紀の中頃になり、全国的に盗賊の取り締りが課題になると、目明しを活用することで、その対応が図られた。三巴初三郎はこうした社会状況のなかで目明頭へと登用される。初五郎は喧嘩沙汰や博奕参会のうえ出奔するなど、藩に度々処罰を受けた人物であった。目明し在任中には「風聞不宜」という理由で退役の是非が議論となるが、盗賊の取り締りに役立ち、後任もいないという理由で、「叱」のみの処分となった。藩は初五郎のような、アウトローを活用することで治安維持の強化を試みたのである。
その初五郎は目明頭就任からわずか3年余で出奔し捕縛される。その直後、目明しに旅籠屋の宿泊者一人につき銭3銭の徴収権をあたえる頭銭制度が導入される。アウトローの活用から制度そのものの拡充へと舵が切られたといえる。これにより、津山城下滞在者の取り締りが強化され、目明しの経済的側面も改善された。