第2回 「戦国時代における伊賀衆の活躍」

「戦国時代における「伊賀衆」の活躍」要旨

笠井賢治

「伊賀衆」についての記録は、戦国時代の幕開けとなった応仁・文明の乱(1467―1477)ごろから登場します。文明2年(1470)6月、西軍の畠山方に味方して和歌山県の根来寺まで出陣するのをはじめ、同17年(1485)10月には、京都府南部の御厨子城に「伊賀衆」が畠山方として籠城していることが記されています。その後も元亀4年(1573)に織田信長の家臣柴田勝家らに従い近江(滋賀県)の戦国大名浅井氏の居城を攻めた記録もあります。

このように、伊賀衆は周辺各地の大名に従軍して京都府や奈良・滋賀・和歌山の各県へ出陣し活躍していたことが窺えます。また、こうした活躍とともに得意とする戦法が記されることもあります。

例えば、天文10年(1541)に京都府笠置町の笠置城での合戦の記録には「今朝伊賀衆笠置城忍ヒ入テ少々坊舎放火」とあり、密かに忍び入り火を放つ、忍者を髣髴とさせる様子が記されています。また、天正8年(1580)に奈良県の五條市内の城を攻撃した際には、「夜中に伊賀衆忍び入候処、南より水堀を越え」とあります。さらに天正10年(1582)、織田信雄に従軍して名張市の滝野城攻撃に参加した小川新九郎という武士の記録に、「内々伊賀の者ハ、しのひ(忍)夜うち(夜討ち)上手ニ候へは」とあります。この記述から、戦国時代の終わりごろには、夜襲や密かに侵入することが伊賀衆の得意な戦法として広く知れ渡っていたことがわかります。

こうした伊賀衆の当時の国内での様子については、葬儀や祭礼などの行事から窺い知ることができます。天台真盛宗の宗祖「真盛上人」の事績を記した記録には、明応4年(1495)に真盛上人がなくなった際、その葬儀は伊賀の檀方(檀那衆=有力な地侍や土豪)が中心となって執り行われたことが記されています。また、京都吉田神社の神主吉田兼見が天正8年(1580)に見た敢国神社(一宮)の祭礼も、地域の地侍たちの主導によって行われていたようです。他国で活躍する「伊賀衆」は、国内でも有力な地侍として儀式を執り行ない、日常的な場面においても彼らが中心となって運営をしていたと考えられます。

伊賀衆は、戦国の世にあって他国の影響を受けながらも独自の自立性と主体性を持ち、活動していたことが当時の史料から窺うことができます。また、少ないながらも史料に登場する「忍び」の言葉から、当時の伊賀衆の活躍の内容を知ることができるかも知れません。

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