第6回「奥瀬はんの忍術研究」(前期)

「奥瀬はんの忍術研究」要旨

北出楯夫

父が著述業、叔父が洋画家という文化的環境で育った奥瀬平七郎さんは、子どもの頃から大の読書好き、講談本などで忍術の世界に触れ、のち著述と観光行政の両輪で、「伊賀流忍術発祥の地・伊賀上野」を打ち立て、今日の忍術・忍者ブームのきっかけを創出した偉大なる観光功労者である。
1911(明44)年、三重県阿山郡上野町の醤油製造販売業の二男として生まれた奥瀬さんは、13歳で仲間らと同人誌を創刊するほどの文学少年。上野中学卒業後は早稲田大学政経学部に進み、井伏鱒二に師事。在学中に上野の同人誌「郷土」に大衆小説を連載した。大学卒業後は満州電々に入社し、終戦で帰郷。 
1947(昭22)年、上野市役所に入り、企画課長として最初に取組んだ市勢要覧に「伊賀と忍術」を執筆した。これは「忍術は架空のものではなく、実在したもの。その実像は極めて合理的、科学的なものである」との思いから、「忍術」を観光資源として開発しようと考えたからである。また、この頃、同人誌などに小説「忍者開眼」や「戦国忍者伝」(27回連載)を書いている。
1952(昭27)年春、市制施行10周年記念事業の「世界こども博」では、「忍者不思議館」を企画し、『忍術の話』を発行、甲賀流忍術14世・藤田西湖氏の実演を取り入れ、人気を博した。この博覧会がきっかけとなり、奥瀬さんへの講演やラジオ・テレビの出演依頼が多くなり、忍者衣装をつけた市職員と共に全国各地へ飛び回った。
1961(昭36)年7月に鍵屋ノ辻に「忍術館」を、続いて1964(昭39)年4月に上野公園内に「伊賀流忍術屋敷」を建設。合わせて「忍術音頭」を制作、「忍術まつり」の開催などを手掛けて多くの観光客を受け入れて忍術観光の基礎を築いた。一方、福田定一(司馬遼太郎)氏の勧めで『忍術秘伝』(昭34)を出版し、続いて『忍術処世法』(昭38)、『忍術・その歴史と忍者』(昭38)、『忍法・その秘伝と実例』(昭39)、『賊禁秘誠談』(昭52)、『忍法皆伝』(昭53)、『忍術の歴史』(平4)などを出版、執筆活動は最晩年まで続け、一時「忍術市長」の異名で呼ばれた奥瀬さんは、1997(平9)年、満85歳でその生涯を閉じた。

 

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