第2回「上野城築城と城下町」(後期)

「上野城築城と城下町」要旨

福井健二

徳川家康は豊臣秀頼との戦いを予期して大坂城を包囲する大名配置を行い、外様ながら信任の厚い藤堂高虎を伊賀一国10万石、伊勢で10万石、伊予で2万石を与えて、慶長13年(1608)に上野へ移封を命じた。 慶長16年(1611)、上野城の大改修に着手し、西側には高さ15間の高石垣を築いて大坂方に備えた。
城下町は本町筋・二之町筋・三之町筋と東竪町・中之竪町・西之竪町を交差させ碁盤状の町割を行い、上野から津に通ずる伊賀街道を整備した。これは将来に備えた物資の流通を考慮したものである。
慶長19年(1614)、伊賀に代々住む郷士から、忍びに長けた者10名を「忍びの衆」として採用、城下に屋敷を与えて忍町とした。10名の忍びの衆は在郷には堀や土塁が巡る中世の城や館を持っていたので、間諜や忍びの役を果たせたのであろうかと疑問を持つ。江戸初期の無足人阿波氏は被官(下人)20名を抱えており、江戸後期の主だった無足人は多い者で10名、少ない者でも2、3名の下人を抱えていたので、実際の忍びの活動はこれらの下人が行ったのであろう。
正保2年(1645)に、忍びの衆は聞こえが悪いので伊賀者と呼ぶことになった。慶安4年(1651)には伊賀者は20名に増え、忍町には6軒の伊賀者屋敷がみえる。
元禄頃から伊賀者屋敷は見えず、享保2年(1717)には伊賀者は16名に減じられ加判奉行の役宅に詰め、安永5年(1776)以降は普請奉行の役宅に詰め、御殿の警護や武士の監視、町民、農人の情報をも監視することとなる。

 

2016年度後期第2回忍者・忍術学講座 (7).JPG

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